歌・読み・意味
『藻塩草 かくとも尽きじ 君が代の 数によみおく 和歌の浦波』
(もしおぐさ かくともつきじ きみがよの かずによみおく わかのうらなみ)
意味:藻塩草(限りない詠草)をどれだけかき集めたとしても尽きる事は無いでしょう。末永く続く我が君の御代と同じようにおし寄せる和歌の浦(数えられぬほどに詠まれていく和歌)の波は。
出典・作者
出典:新古今和歌集(賀歌741)
作者:源家長
歌の背景
「和歌所の開闔になりて、はじめて参りし日、奏し侍りし」とあり、『源家長日記』では建仁元年(1201)8月に開闔(年預)となった事が記されていて、歌はこの役職を受けて初めての(参内しての歌会?)日に詠まれたものです。
塩を採るために使う「藻塩草」と、和歌をよんだ紙・和歌の草稿である「詠草」とを”(掻く)書くとも尽きる事はない”に掛け・・さらに紀伊の国(現和歌山県)の枕詞「和歌の浦」に押し寄せる波と、世の中にあってあまたに詠まれる「和歌」とを掛ける事で、家長がお仕えした後鳥羽院の御代の悠久への願いが巧みに表現されていますね。
現代風にざっくり訳すと・・
①「和歌の浦の尽きる事の無い波に洗われた藻塩草が、たとえ塩を採るために掻き寄せられても無くなったりしないでしょ!」
②「今まで世の中で詠まれた、あるいはこれから詠まれる和歌が書かれた詠草も尽きてしまう事なんてありえないでしょ!」
という事で・・
③「①と②のように・・私のお仕えする後鳥羽院の御代もず~っと続いて行くよね!(続けばいいな~)」
・・こんな感じかな??
源家長(みなもとのいえなが)について
生年:嘉応2年(1170)説・承安三年(1173)説
没年:文暦元年(1234)
従四位上:但馬守
後鳥羽院の和歌の復興運動を支える人物として活躍。『新古今和歌集』の編纂では中心的役割を果しました。
家長が活躍を見せ始めた時代は鎌倉幕府との対立が激化する「承久の乱・1221年」前後という事もあり、家長にとっては受難の時期(すべての官職を辞すなど)が長く続きましたが、晩年にはそれまでの功績が認められ復権を果たしています。
自身も歌人として活躍。勅撰集に3首選出されていて、また晩年はに自身が主催する歌会を(近江国日吉・現滋賀県大津市)たびたび開いたそうです。
また日別に記載されてはいませんが著書に『源家長日記』があり、後鳥羽院への賞讃や和歌所としての日々が綴られています。
雑談
タヌさん・・この人って「源」を名乗っているから武士なんじゃないの??
家長は「源時長」の子として生まれていて、時長の祖父(家長の曽祖父)は「藤原 顕時」で、この人は平家とも親交が深かった公家として有名だから、同じ源氏でも藤原流の公家の家系だそうだね。
「承久の乱」が公家社会に及ぼした影響は絶大だったんだよね。
院や皇族方が多数配流されているし・・
後鳥羽院にまつわる悲しい物語や「承久の乱」の詳しい説明は別の機会にとっておくけど・・
ま、政治の実権を武家社会から取り戻そうとする運動は、これよりは語られることすら無くなっていくんだよね・・(御醍醐天皇の御代まで)
苦労人であった源家長が「承久の乱」以降にさえ復権にあずかれた事は、今日の教訓話としても流用出来そうですよね!
「まじめに・実直に生きれば、必ず報われる」
鎌倉初期でさえ保たれていた社会秩序・・現在の私たちの世がそれを叶えられないはずはありません・・よね(汗)。
今日の日本社会の公平性への「物差し・羅針盤」として、また併せて私たちのお慕いする「今上陛下の御代の悠久」を祈らせてもらうために・・この歌をご紹介してみました。
「天皇弥栄」「日本弥栄」