「ひんがしの~」の歌。
日本人の誰しもが知っているこの歌は、実は大晦日にかけて詠まれた歌なのです。
令和の御代まで・・
126代引き継がれた日本の至宝【皇統】が、如何に神々と皇祖皇宗の承認と祝福に満たされていたのかがご理解いただけるかと思います。
~1300年以上の昔より語り継がれる柿本人麻呂の紡いだ日本語の奇跡~
どうぞご堪能下さい。
注:この記事は過去記事(2021年3月10日 10:00 AM)を再アップしたものです。
歌・読み・意味
『東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ』
(ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ)
意味:東の野の方角から明け方の太陽光が伸びてきて、反対の西側では月が傾き沈んでいこうとしている。
出典・作者
出典:万葉集1巻・48
作者:柿本人麻呂
歌の背景
日本史上最高峰の「歌人」人麻呂の歌としてみると、一見何の変哲もない「凡歌」に感じてしまいますが、そこは流石の人麻呂。
実はこの歌にはとても複雑で壮大な背景が詠み込まれていて、万葉集を代表する歌として有名なばかりではなく、日本の古代宮廷儀式を今日に伝えてくれる第一級歴史資料としての価値をもあわせ持っているんです。
この歌には当時の背景を説明して余りある「長歌一首」、反歌としての「短歌四首」が残されています。(この歌は短歌四首のうちの三首目)
それによると、(推定)持統10年(696)大晦日(陰暦の11月17日)の明け方頃に、宮廷歌人の人麻呂が「軽皇子(後の文武天皇)」の代わりに詠んだ歌だという事が分かっているのですが・・
それでは以下に長歌一首と反歌(短歌四首)を振り返り、「東の~」の歌の背景と意味合いを捉えていきましょう。
長歌一首
先ずは長歌です。
『やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太しかす 京をおきて こもりくの 泊瀬の山は 真木たつ 荒山道を 岩が根の しもとおしなみ さかとりの 朝越えまして たまかぎる 夕さりくれば みゆきふる 阿騎の大野に はだずすき しのを圧しなみ 草枕 旅宿りせす 古おもいて』
万葉集1巻・45
私(人麻呂)のお仕えする天子様(軽皇子)。そんな将来帝位につかれるお方が神の技(立太子の儀式)をご披露するというので、安んじて御治めになっていらっしゃる都を出立して、泊瀬の山の荒々しい山道を、岩に生えた木々の立枝をおしふせつつ、朝越えに坂鳥のように御幸(お旅)なされ、夕日が差すころには雪降る道をかき分け、阿騎の大野に篠竹の藪を踏みならし野営をなさることだ。・・昔を思い出しながら(お隠れになった「草壁皇子」(軽皇子の父)を思い出しながら)。
「こもりく・隠国」は「泊瀬」にかかる枕詞で”三方を囲まれた行き止まりの山地”のこと。古来日本ではこのような地形の場所に「死者の霊魂が止まる」とされていて、鎮魂・供養の場所として聖別視されていました。
*泊瀬の山:現桜井市長谷寺付近の山
*阿騎の大野:現宇陀市・旧大宇陀町辺り
反歌:短歌一首目
続いては短歌です。
阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき いも寝らめやも 古思うに
万葉集1巻・46
この阿騎の野に野宿をしている旅人(軽皇子)は、深い眠りにつくわけもいかない・・あれこれと過去の徒然を思い出すにつけても。
捕捉:長歌を受けての一首目。時間軸はいまだ夜が明けやらぬ頃・・「御狩」の前の緊張と、父「草壁皇子」への想い(鎮魂)が交錯しているようです。
反歌:短歌二首目
ま草刈る 荒野にはあれど もみぢばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し
万葉集1巻・47
(阿騎の野は)随分荒い野ではあるけれども、お隠れになった君(草壁皇子・軽皇子の父)の面影をしたって(思い出を慕って)やってきたことよ。
捕捉:「ま草」の表現も(過ぎにし君「草壁皇子」)に掛かる枕詞として強調し、短歌二首を割いて「夜の長さ(鎮魂の長さ)」を訴えているようです。
反歌:短歌三首目
東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
原典はこちら⇒「東野炎立見所見而」「反見為者月西渡」
万葉集1巻・48
「東野炎立見所見而」「反見為者月西渡」
「あずま野の 煙の立てる ところ見て」「かへり見すれば 月西渡る」
捕捉:長い夜(草壁皇子への鎮魂)が明けてきました。新たなる「天つ日嗣」(皇位継承・皇位)は旭日の勢いに昇り、丁寧なる鎮魂に満足した魂は月とともに冥府へと旅立ちます。
反歌:短歌四首目
日並知の 皇子の尊の 馬なめて み狩立たしし 時は来向かふ
万葉集1巻・49
草壁皇子が群臣を引き連れて「立太子の儀式」の御狩を催しになった時と同じように・・今その時(軽皇子の立太子の儀式)がやってきている。
捕捉:いざ本番です。父草壁皇子も堂々と催したように、「天つ日嗣」としてふさわしく「御狩」を成功させましょう!
歌が詠まれた当時の状況は?
天武元年(672)に起こった「壬申の乱」(古代史上最大級の内乱・皇位継承争い)を勝ち抜いた「天武天皇(大海人皇子)」。
しかしその天武天皇も685年頃からは病床に伏せる事が多くなり、国務はもっぱら皇后である「鸕野讚良・後の持統天皇(軽皇子の祖母)」と「草壁皇子(持統天皇の子・軽皇子の父)」が取り仕切るようになっていました。
686年10月に天武天皇がお隠れになると、当時皇太子の「草壁皇子」が存在していましたが、様々な要因から皇位継承問題を懸念した皇后(鸕野讚良)が速やかに天皇として即位します。「持統天皇の誕生(*正式な即位は690年)」
ところが持統天皇の子「皇太子・草壁皇子」は帝位につくことなくお隠れになります(689年)。
持統天皇この時45歳・・その落胆はいくばくのものだったでしょう。
さらにその後「高市皇子」をも立て続けに失ってしまいました(696年8月)。
そのような折、次期天皇候補として白羽の矢が立ったのが「軽皇子」(持統天皇の孫・草壁皇子の子)だったのです。
「軽皇子」は当時14歳。人心を安定させるためにも取り急ぎ立太子の儀式を済まさねばなりません。
しかし、現在の皇位継承にも言える事ですが、「天皇・すめらぎ」としての資格を有するかどうかは単に皇統を有する「血縁」が重要視されるばかりでなく、八百万の神々・つまり「皇祖神」にも”ご了承”いただかねばなりません。
その霊的な、あるいは宗教的な儀式が「御狩」であり、併せて皇宗の霊(この歌の中では特に「草壁皇子」)へのご挨拶(鎮魂の儀式)が急遽催されることとなったのです。
国家の責務と期待を背負う若き皇子(軽皇子)が、次期天皇となるために避けて通ることのできない神聖なる儀式に臨む”張り詰めた心境”をも、皇子に成り代わり詠んだのが「人麻呂の長歌と反歌」だったのです。
歌全体を読み解いて見よう!
はい、という事で、ここからは総合的に歌を読み解いていきましょう。
歌全体の流れを捉える為に重要な点だけ抽出すると、以下のようにまとめることが出来ます。
- 神聖なる「御狩」を催すために荒山をかき分け辿り着き・・長歌
- 父を慕い・父を想いながら眠れぬ夜に野営し・・長歌と短歌一首目、短歌二首目
- 東に昇ってくる朝日を「立太子後、新天皇になる軽皇子に見立て」・・短歌三首目
- 西に傾く月を「草壁皇子への鎮魂とし」・・短歌三首目
- 父君も催した「御狩」の時間がいよいよやってきた・・短歌四首目
総合解説
長歌の訳にもある通り、軽皇子御一行は・・
- 夜も明けぬ頃から宮廷を出立し、都を遠く離れた鎮魂の山「泊瀬の山」を目指します
- 道中は大変荒れた山道で、巨木の合間を、あるいは岩肌や木立の隙間を縫うかのようにおしなみへしなみ越えていきます
- 夕方になりやっとたどり着いた「阿騎の野」でも、野営の準備に一苦労です
- 明日は「御狩」の本番、しかしすやすやと眠りにつけるはずはありません・・皇子にとっての父君である「草壁皇子」の生前のご活躍や、ここで同じように立太子の儀式を堂々と催しになられた「古」に思いを馳せているのですから。
・・と、このように歌われていますね。
そんな長歌の内容とその後を、より詳しく説明するかのように「反歌四首」が詠まれています。
- 長歌の時間軸:「宮廷出立から阿騎の野での野営」まで。
- 短歌の時間軸:「野営から夜が明けて御狩の直前」まで。
まだ14歳の青年「軽皇子」が、堂々と日嗣の御子(皇太子)とおなりになるために荒山をかき分け、「御狩」を催すために聖地「阿騎の野」に御幸(お旅)する様を、長歌の中に丁寧に説明して見せる事で、道中の現実的な険しさを表現しつつ、これから臨む”儀式”の重大さ、その先に待っている「立太子から天皇への道筋」がどれだけ神聖な道筋なのかを”読者”に訴えかけているようです。
これから軽皇子の歩もうとする道は、父君である「草壁皇子」も同じ道筋をたどってきました。残念ながら「草壁皇子」も、後に続く「高市皇子」も帝位につくことなく早逝してしまっています。
~立て続けに”次期天皇候補”が失われていく当時の政権中枢~
国家の安定を内外に示し置くため、人心の安定を図るため、神々や皇宗にご了承を得るためには、確実に「御狩」を成功させなければなりません。
そしてとりわけ草壁皇子への鎮魂にはきめ細やかな配慮がなされなければ・・
「私(人麻呂)がお仕えする天子様(軽皇子)もあるいは・・」
そんな人麻呂自身の心穏やかならぬ”心情”も、歌に反映されているのかもしれません。
様々な憂い(心配・不安)を、軽皇子自身に成り代わって歌に詠みあげると同時に、
- ①神々への「禊・皇位継承者としての承認」
- ②皇宗への「報告」
- ③亡き父・草壁皇子への「鎮魂」
これらへの配慮が意図的になされています。
皇祖(神々)に愛され、皇宗(先祖)に了承され、亡き父(草壁皇子)を丁寧に鎮魂する・・そのような存在でなければ「御狩」は成功しない、軽皇子の前途(即位)が開けるはずも無い事を、宮廷歌人「人麻呂」は当然のように意識し、そして知り尽くしていたのでしょう。
長歌にある「泊瀬の山」は鎮魂(こもりく)の地でしたね。
そして短歌三首目の「反見為者月西渡(かへりみすれば月かたぶきぬ)」の「月」は「草壁皇子」の象徴にして鎮魂の手向けとなっています。
このように見ていくと・・
- 当時の国家の最重要儀式(立太子・「御狩」)の成功祈願
- お仕えする軽皇子の前途を”言祝ぐ”(祝いを述べる事・呪術的に祝う事)
- 特に父草壁皇子への鎮魂
終始これらを念頭に詠まれていると、まとめることが出来ます。
さらに言えば・・
特にここで紹介した短歌三首目の「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」は、立太子の儀式「御狩」の本来の目的を最も象徴的にまとめあげた”呪術的言祝ぎ”にして、人の世の輪廻”鎮魂”を宇宙の不変の周期の中に捉えた”一大傑作”となっている事が、ご理解できるのではないでしょうか。
こんにち、人麻呂の長歌とその他の反歌三首の存在を知らなくても、「ひんがしの~」の歌だけは知っている日本人が多いのも納得できるのではないでしょうか♥
ひ・・人麻呂さんかっけ~~
日本ってすごい国だよね!
1300年以上も前の「儀式」が歌の中にも伝えられているんだから、こういった一面を小学校なんかでも積極的に教えて行ってもらいたいよね~
歴史ロマン:歌が詠まれた年は果たして・・
今回ご紹介した人麻呂作「長歌一首・反歌(短歌四首)」の詠まれた年の比定をめぐっては、諸説展開されているのをご存知でしょうか?
そのなかでも最も有名なのが以下の3説・・
- 朱鳥7年・持統6年(692)説
- 持統7年(693)説
- 持統10年(696)説
当サイトでは「持統10年(696)説」を採用しています。
父ちゃんはなんで「持統10年(696)説」を推しているの?
詳しく話すと長くなるから例によってザックリまとめるけど・・
- そもそも天武天皇の崩御(686年)以後、国家の運営を引き継いだのが皇后「鸕野讚良」(後の持統天皇)と、皇太子「草壁皇子」。
- 「草壁皇子」は(689年)に即位することなくお隠れになる。*ちなみに「軽皇子」はこの頃6歳・・幼すぎます。
- 実質の天皇だった皇后「鸕野讚良」は慌てて正式に天皇として即位する(690年)。*即位元年から「持統4年」とされる*
- 「草壁皇子」・「大津皇子」(冤罪により自害)を失うに及び、「高市皇子」が次期天皇候補に浮上(立太子していたとする説もある)。
- しかしそれを認めると、「舎人皇子」「弓削皇子」といったその他の天武天皇の皇子を担ぎ帝位を窺う群臣が現れる。
- 「壬申の乱」と同じ過ちを繰り返す事だけは避けたかった持統天皇は、自らの治世が長く及ぶことで無用な争いの回避に努めると同時に、将来の「軽皇子」即位までのつなぎ役を引き受ける。
- (696年7月)「高市皇子」までもがこの世を去ってしまう。
- 「軽皇子」この時14歳。当時の前例によれば若すぎる天皇候補ではあったが、持統天皇は「軽皇子」を立太子させるべく行動に移す。
- まず群臣を集め評議の結果「天皇の子が争うことの愚を説き、立太子していた草壁皇子の(軽皇子)系統を支持する事を確認させる」(一種のクーデター説あり)
- 「軽皇子」は次期天皇となるべく立太子の儀式「御狩」に臨む。⇇これが696年の冬(おそらく大晦日)
- 翌年697年8月・「軽皇子」は正式に「文武天皇」として即位(若干15歳)。
- 譲位を果たし終えた「持統天皇」は史上初めての「太上天皇」となり、若き孫の「文武天皇」の良き補佐役として残りの生涯をささげる事になる。
な?振り返りも兼ねてまとめてみたけど・・
人麻呂の歌が詠まれた年の比定は「696年の冬」以外ありえないと思うんだけどな~
*持統天皇にとっての実の子が「草壁皇子」。
*謀反(おそらく冤罪)で自害した「大津皇子」は姉の子。
*「高市皇子」ご存命中の「軽皇子の立太子」はほぼ不可能。(朱鳥7年・持統6年(692)説と持統7年(693)説)
*もしも実現していたのならなら”前後の歴史を鑑みるに”「皇位争奪の戦い」が起こっていたか、「他の皇子の粛清」が起こっていたと思われます。
*「高市皇子」以下の「天武天皇の皇子」も有力豪族の娘などを母に持つため、皇位継承争いは必至。
*持統天皇にとって自身を安堵させ、最も穏便に皇位継承を果たすことが出来る存在は「草壁皇子」の子である「軽皇子」の他には存在しえなかった。
ほ、ほんとだ~
「草壁皇子」を失ってからの争いの火種、皇統の乱れを一身で食い止め、「文武天皇」誕生までを成し遂げた「持統天皇」のご活躍は、長い日本の歴史上にあっても”女性が活躍した歴史”として特筆すべきものだったんだね。
最後に
天智・天武・持統・文武・・最低でも4代の天皇に宮廷歌人としてお仕えした「柿本人麻呂」。今回ご紹介した人麻呂作の『詠進歌』「長歌一首と反歌(短歌四首)」には、持統帝時代の皇位継承にまつわる様々な背景とともに、特に「文武天皇」誕生を後押しするための仕掛け(承認・報告・鎮魂)が数多く詠み込まれていました。
(注:【詠進】歌をつくり宮廷や神前に差し出す事)
~「言祝ぎ」と「鎮魂」に満ちた歌~
日本史上最高の歌人によって編み込まれた言の葉の奇跡。
柿本人麻呂が残してくれた「長歌一首と反歌(短歌四首)」には、このような壮大な背景が詠み込まれていました。
おしまい。