楠木正成像 写真出典:Valentina(様)・より加工
【日本の歴史】令和の御代、先人方の弛まぬ努力の結果『平和』を享受していられる私たちだからこそ知っておきたい日本の国柄・大転換点。
本項ではタヌキが独断で選んだ日本史上の三大転換点を「流しそうめんの様に」解説していきます。
今回は歴史的断層面:②『南北朝の争乱(元寇の乱~南北統一)』編です。
注:歴史講座ではありません。専門的に調べたい方はそれぞれに特化した環境にてお願いします。
ちょっと長いです。ですので太字だけを流し読みできるようにしています。
また最後に『今北三行』まとめ、置いとくから・・
お急ぎの方はそちらへどうぞ♡
日本の歴史的断層面:『南北朝の争乱』って何のこと?
『南北朝の争乱(南北朝時代)』は一般的には・・
「『建武の新政』の開始年1333年か、解散年1336年のどちらかを始まりとして、『南北統一』の明徳3年(1392年)までの約半世紀にわたって繰り広げられた争乱」の事です。
でも・・実際の争乱の原因である⏎
「そもそもなんで南朝・北朝に分かれたの?」
・・という至極まともなツッコミを説明するためには、
「後嵯峨天皇の後継者争いで、すでに皇統が二派に分裂して争っていた」事を知っておかねばなりません。
ですので、そのあたりの事情も含めて「なぜ南北朝の争乱が始まったのか?」をわかりやすく箇条書きしてみますね。
かんたん箇条書き:南北朝の争乱はなぜ始まったの?
- 寛元4年(1246年)後嵯峨天皇の後継者争い勃発!
- 大覚寺統(後の南朝方)・持明院統(後の北朝方)に分かれる。
- 鎌倉幕府の仲裁により『両統迭立』が取り決められる。⇒「皇統(公家社会)が争ったらあきまへんがな~仲ようして天皇を交代制で迭立させる事でどやろか?」
- 公家社会⇒「それで勘弁するでおじゃる」
- ~約80年経過~
- 後醍醐天皇「そもそも臣下ごときが皇統に口を挟むとはもってのほか!討幕運動や!!」⇒正中元年(1324年)『正中の変』勃発⇒倒幕失敗
- 後醍醐天皇「まだまだ~」元弘元年(1331年)『元弘の乱』勃発⇒倒幕失敗
- 後醍醐天皇「助けて~島流しにあっちゃった。」⏎『綸旨(天皇の仰せを受けて蔵人所から出した文書)』の発行
- 「天皇からの手紙?!鎌倉は恩賞くれないケチだからこの際倒すか」全国の倒幕武士団動く!⇒祝2週間くらいで倒幕成功!
- 後醍醐天皇「よっしゃ~~!都に戻って政治するで~」⇒「建武の新政」
- 倒幕に参加した武士団「あの~?私どもに恩賞は?」「手弁当で命を懸けたんですけど~」
- 後醍醐天皇「え?恩賞??」
- 倒幕に参加した武士団「え?くれないの?」⇒不満MAX
- 帝位が回ってこない持明院統の方々「・・しゅん。おなかすいたな~」
- 倒幕に参加した武士「腹がへったでござる」
- 持明院統・一部の武士「初めまして。あ、こんにちは」⇒協力関係成立
- 持明院統・(光厳上皇)「武士さん方、帝位が回ってくるなら協力するよ!」⇒『院宣』(上皇や法王が出した手紙「宣旨のこと」)の発行
- 足利氏を中心とした武士団「よっしゃ!これで南朝の命令を聞かなくても朝敵にはならないぞ。持明院統(北朝)を盛り立てるぞ!!」
- 大覚寺統・後醍醐天皇・楠木氏・新田氏・北畠氏・菊池氏「正統はこちら!北朝(の武士団)に対抗するぞ!!おおお~~う!」
- こうして日本に二系統の天皇が同時代に並び立つ時代「南北朝時代」が始まる。
- ~約半世紀にわたる戦乱の世が日本を覆う事に~
うん!わかりやすいね~
まだ難しい!もうちょいわかりやすくして、タヌさん。
じゃ~3つにまとめるね!
超かんたん3行まとめ:南北朝の争乱はなぜ始まったの?
①後継者争いで二系統に分かれた皇統が、それぞれ交代制で『天皇』を輩出していたが
②後醍醐天皇がそれを破り倒幕運動を展開。成功するも『建武の新政』が武士の不評を買い
③多くの武士が『北朝』を盛り立て、日本が南北の二大勢力に分かれて争うようになった。
ちなみにどうして南朝・北朝と呼ぶのかについては・・
後醍醐天皇時代の南朝が京(現在の京都市)を離れ、京から南方の吉野(現在の奈良県南部)に本拠地『吉野行宮』を構えたことに由来します。
南朝の都:吉野⇒賀名生⇒住吉
北朝の都:京
あ、これなら覚えられそうだ。
年代順『南北朝の争乱』の代表的事件簿
ここらへんは歴史に興味のない方はザックリ読み飛ばしてください。ペコリ
1324年『正中の変』・・後醍醐天皇が幕府討伐を目指して起こした事件⇒途中発覚・計画失敗
1331年『元弘の変(乱)』・・後醍醐天皇が幕府討伐を目指して起こした事件⇒途中発覚・計画失敗・天皇島流し。しかし天皇に呼応した武士団の活躍で鎌倉幕府討幕は達成。
1333年『建武の新政』・・後醍醐天皇が行った政治の事。主に武士階級の不評を買う。
1336年『建武の乱』・・後醍醐天皇方と足利尊氏方との戦いの総称。足利方勝利。後醍醐天皇は吉野に逃れ『南朝』を開く。他方足利尊氏もその後京を追われ九州へと落ちる。
~南北朝時代突入~
1336年『多々良浜の合戦』・・現福岡市東区の多々良川周辺で繰り広げられた戦い。足利に味方する勢力(少弐・大友など)対南朝に味方する勢力(菊池・阿蘇など)の戦い。足利方の勝利。足利氏勢力を大幅に盛り返す。
1336年『湊川の合戦』・・現神戸市兵庫区湊川周辺で繰り広げられた戦い。足利尊氏・直義対南朝勢力新田義貞・楠木正成との戦い。足利方の勝利
~このころ(1336年)足利幕府成立~
1336~7年『金ヶ崎の合戦』・・現福井県敦賀市にある金ヶ崎城をめぐる攻防戦。新田義貞率いる南朝勢力が籠った金ヶ崎城を北朝方の斯波高経らが攻撃。北朝方の勝利。この後南朝方は『新田義貞』『北畠顕家』らの有力武将を相次いで失っていくこととなる。
1348年『四条畷の合戦』・・北朝・幕府方の高師直率いる大軍が現大阪府大東市付近に展開、南朝方楠木氏との間で繰り広げられた戦い。北朝・幕府方の勝利。*余勢をかった高師直は吉野へと兵を進め『吉野行宮』を焼き討ちする。
1350~1352年『観応の擾乱』・・幕府内での内乱の総称。尊氏・直義・直冬・高師直などの各派閥が南朝方をも巻き込んで争った。この結果『高氏』は滅亡、また尊氏は実弟の直義を失ってしまう。
1351年『正平一統』とその破談・・当時北朝にあった三種の神器を南朝方に返還し、元号を南朝方の『正平』に統一することを条件とした「南北和睦案」が受け入れられた(実質的な北朝の降伏)。結果三種の神器は南朝方が回収・崇光天皇と皇太子は廃され、元号も『観応2年』が廃され『正平6年』に統一される。⇒これに勢い付いた南朝の各勢力は主に京・鎌倉から北朝勢力の一掃を試みる。他方、北朝・幕府側も『観応の擾乱』の終結を機に南朝方との対立に専念できるようになり『正平の一統』からわずか4か月後には『観応』(北朝側の元号)の復活を宣言するに至る。
1353~1361年『四度の京をめぐる合戦』・・南北双方が都『京』の支配権を争った。南朝方は劣勢を覆すことはできなかった。
1392年『明徳の和約』・・南北朝合一に交わされた講和条約。すでにその頃南朝勢力は弱体化し全国的にも吉野周辺にその勢力を残すのみとなっていた。したがって南朝側が講和の条件として出せるものはそもそも南朝方にとっては受け入れがたいものばかりであったが、和約後はそれらすら多くを反故とされ、北朝側に吸収合併される形で消滅していった。
~南北朝時代の終焉~
南北朝の争乱が歴史的断層と思う理由は?
それではいよいよお待ちかね。
日本の歴史的断層面だと思う理由を見ていこう!
【日本の国柄を揺るがした三大出来事①『大化の改新~白村江の敗戦』】でも紹介していますが、我が国日本は建国以来『天皇』を国家の中心にいただき、皆家族のように暮らすことを理想の『国体』としてきました。
『大化の改新』(乙巳の変)では、専横を極めた蘇我氏を排除する形で『天皇』の権威の安定化を図り、後の統一国家を造り出す礎としていましたね。
他方、今回ご紹介した『南北朝の争乱』について・・みなさんの受けた印象はいかがだったでしょうか?
先人方が苦労の末、強い統一国家を造ろうと奔走したそのすべてを、戦乱の内に打ち捨てているような印象が無かったでしょうか?
もとを糺せば天皇の後継者争いがすべての発端です。
確かに鎌倉幕府の台頭や、藤原氏(公家社会)の専横など多くの遠因もありますが、ザックリ言わせてもらえるなら・・
『(天)に太陽(皇)が二つ並べば民(国)は乱れるでしょ!』
で、それを約半世紀もやってしまった時代が『南北朝の争乱』・・つまり南北朝時代なんです。
少しだけ想像してみてください。
今上天皇が照らしてくださる御代『令和』。これに並行する元号が日本のどこかではじまり、それを共有しない者とはあくまでも敵対しようとする勢力が日本国内に存在している場合を・・。
それって、日本に別の国が出来ているって事と同じだよね!
んで、自分たちの方が正当な日本だって言い張っているって事でしょ?
??え?
そうなの?
うん、正解!
『南北朝の争乱』は、ただの内乱とはここが完全に違っているところなんだよ!
わかりやすくまとめると・・南北時代の特異性は
- 天皇が
- 同時代に
- 二系統(二天皇)
- 存在した
って事なんです!
日本の有史以来、天皇が二人並び立ち、元号もそれぞれに宣言された時代は『南北朝の争乱』のこの時期だけなんです。
天に太陽が二つ並ぶ・・
国に天皇が二人存在・・
絶対にあってはならない事なんだね・・((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ちなみに南北それぞれの天皇と元号を紹介しておきます。
南朝
96代後醍醐天皇=元号:南朝の建武(1334~1336年)・延元(1336~1340年)
97代後村上天皇=元号:興国(1340~1347年)・正平(1347~1370年)
98代長慶天皇=元号:建徳(1370~1372年)・文中(1372~1375年)・天授(1375~1381年)・弘和(1381~1384年)
99代後亀山天皇=元号:元中(1384~1392)*南朝最後の天皇と元号
北朝
北1光厳天皇=元号:北朝の建武(1334~1338年)
北2光明天皇=元号:暦応(1338~1342年)・康永(1342~1345年)・貞和(1345~1350年)
北3崇光天皇=元号:観応(1350~1352年)
北4後光厳天皇=元号:文和(1352~1356年)・延文(1356~1361年)・康安(1361~1362年)・貞治(1362~1368年)・応安(1368~1375年)
北5後円融天皇=元号:永和(1375~1379年)・康暦(1379~1381年)・永徳(1381~1384年)
北6・第100代後小松天皇=元号:至徳(1384~1387年)・嘉慶(1387~1389年)・康応(1389~1390年)・明徳(1390~1394年)
ホントだ~すげ~時代だったんだ『南北朝の争乱』期って・・
見た目はどうだったかは分からないけど、確かにこの時代は日本が二つに分かれていたんだね・・
承平天慶の乱・応仁の乱・戦国時代・関ケ原合戦⏎(リンクWIKI)
このように日本史上では『南北朝の争乱』にも並ぶほどの有名な戦乱期がありました。
しかしどの時代も『南北朝期』の様に「天皇が二系統によって擁立されている時代」は存在しませんでした。
この一点をもってしても『南北朝の争乱』期が、日本の歴史的断層面になっているってタヌが捉えている理由・・わかってくれたかな?
裏の裏:㊙南北朝の争乱が起こった最大の原因
さて、ここまでで終わるのが普通の『歴史考察』ですが、このサイトは家族の『開運』を目指し、またその先には『日本の再生』なんかも視野に入れちゃったりする「大それた野望」を含んだ場所なんで、その辺のところをみなさんで再確認していきましょうね♡
みなさんも南北朝の争乱がなぜ起こったのかの三行まとめを思い出してみてください。
①後継者争いで二系統に分かれた皇統が、それぞれ交代制で『天皇』を輩出していたが
②後醍醐天皇がそれを破り倒幕運動を展開。成功するも『建武の新政』が武士の不評を買い
③多くの武士が『北朝』を盛り立て、日本が南北の二大勢力に分かれて争うようになった。
ここで疑問に思うのが②~③にかけての推移なんです。
あ、ホントだ!
日本以外では考えられないよね!
みなさん・・わかりますか?
戦乱の歴史を紐解くと・・諸外国とはここが全く違っているんですよ!
・・・わかんない・・・
じゃ、答え合わせね!
①「皇統の乱れから生じた争いに介入した足利方(武士)は」
②「天皇の要請を受けて働いたが、恩賞などに不満を持ち多くが離脱」
③「でもどうしてその後新しい(持明院統)権威を押し立てて対抗しようとしたの?」
~仮に途中まで権威を利用しても、野望が達成したら取って代わればいいじゃん!諸外国の様に~
この③って・・
足利方の武士団が『朝敵』になることを恐れた結果が生み出したんだとすると・・
そもそも、なぜ『朝敵』を恐れるの?
自分たちが頂点に立てば話は簡単じゃん!・・ってみなさんも思いませんか?
そうなんです!ここなんです。
『大化の改新』以来、日本人はどれだけ争っても、どれだけ武を敷いても・・
『日本の統治者は天皇である』
・・って事を忘れる事はなかったんです。
日本以外の諸外国は新しい簒奪者が歴史を都合よく書き換え、自らの支配がいかに正当なものかを後世に伝えて行きます。正史は二の次です。
だから前の王朝との連続性が説明できず(これを『国家の断絶』という)、また説明する必要性も無いので従前の権威は根絶やしになる場合がほとんどです。
ところが我が国日本の場合をよく見てください・・
『公家』『武士』『民』それぞれが見失っていないんです。日本を照らす権威の源は『天皇』だという事を。
だからこそ、足利を中心とした武士団は天皇に弓引くことを恐れ、生き残るために北朝(持明院統)を頼り、朝敵になることを回避しながら新しい時代を切り開こうともがいていたのではないでしょうか?
後世、俗に南朝方に与した武将を格別に褒めたたえ、北朝側の武将を逆賊扱いに捉える向きがあったりしますが・・日本人特有の気質『判官びいき』が働いている結果です。
南朝・北朝双方に与した武士団はそもそも『天皇』に弓を引くことを恐れたからこそ『南北』に分かれたんです。だから大局的にはこの時代でさえ朝敵は存在しません!・・よね。
それな!
ただ単なる国家の簒奪なら『南北』ではなく、『朝廷対朝敵』になっているはずですよね!‥って事で『日本の統治者は天皇である』という国民意識の共有が『南北朝の争乱』を生み出した最大の理由だって事で・・ガッテン頂けますでしょうか?
その証拠・・
「南朝方・北朝方・どちらが勝っても王朝(日本)は続いていたでしょ♡」
この一文ですべての事は説明できてしまいます・・よね!
ところでタヌさん。
家族の開運要素はいったいどこに?
え?わかんないの??
天皇が『南北』にそれぞれ分かれて存在していた世の中でさえ、日本人は『天皇』の権威を忘れる事無く支え続け、「国家の断絶」を上手に回避しながら『日本国』を連綿と受け継いできたんだぜ。
これを『開運』と思わずに暮らしていけるの?これを知っているのとそうでないのと・・どれだけの『差』が出てくると思う?
逆にそれを知らなくて、どうやって日本国を守りどうやって後世に伝えていけるのかな?
「グローバル」・・などといった掛け声に押し切られ『国家』『領土』『天皇』まで奪われてから泣き出しても遅いって事よ!
ガッテン!やっとわかった♡
まとめ
MR.タヌキの『今北三行』まとめ!
①後醍醐天皇「天皇に国政の実権無し・皇位継承は朕が決める!」「ピコ~ン!そうだ、倒幕だ」⇒数度の倒幕運動をへて鎌倉幕府滅亡
②足利武士団「恩賞ね~よ・立つ?でも朝敵はやだよ」「ピコ~ン!そうだ、北朝立てよう」⇒持明院統(光厳上皇)を担ぎ南北朝時代が幕を開ける「天皇・元号・都が並立」
③南北武士団(民)「お、俺達は天皇に弓は弾いてないよね?」「う、うん。」「で、仲直りしとく?」「モチ」⇒『明徳の和約』「天皇・元号・都」が一つにまとまる
この三行まとめ(約半世紀)の間に、大小さまざまな戦いが日本列島各地で繰り広げられました。
日本国内に天皇・元号・都がそれぞれに存在した時期は長く続く我が国の歴史の中でも、この『南北朝の争乱』期のみです。
戦乱は苛烈を極めましたが1393年『明徳の和約』をもって、一応の終止符を打つことに成功しています。
日本人はこの間に「天皇が二人存在するような争いは二度と起こしてはならない」という教訓を得ました。
令和の御代に生かされる私たちも『南北朝の争乱』から伝えられる数々の反省点を忘れる事無く、天皇を盛り立て皇室を盛り立て、2000年以上の長き歴史を誇る我が国を、かわることなく後世へと引き継いでいけるように頑張りましょうね!
タヌキ一家もご一緒させてね♡
番外編:諸外国と日本(人)の意識の違い箇条書き
- 日本の荒ぶる神々を鎮めることが出来るのは天皇のみ
- だから天皇に弓引く者は皆朝敵
- 武士がどれだけ威張っても民はついて来ない
- だから時の権力者は天皇の権威と上手に折り合いをつける
- もしも皇統そのものが乱れたら??
- 民(国)は乱れてしまうよね
- ↓↓
- 諸外国「いや、めんどくさいから権力者が新しい日本の王様になっちゃえば?」
- 日本国民「それ『朝敵!』日本国に対する反逆」
- 権力者「そうそう、新たな王は無理ぽ」
- 諸外国「ひえ~天皇の事になると日本人こわ‥((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル」
- 権力者「でも~、生き残るために天皇のもう一つの皇統に頼ろう」
- 日本国民「え?天皇同士の争いがはじまるの?」
- 権力者「違うよ!それぞれに付き従った『武士階級』が争っているだけ!」
- 日本国民「それなら少し安心。どっちが勝っても天皇がいらっしゃるのならOK」
- 諸外国「え?天皇がいればOKなの??」
- 無事南北統一成功
- 日本国民「公家さん方猛省して!これからも天皇をよろしく見守ってよ!」
- 公家「はいでおじゃる!腹筋20回・腕立て高速50回するマロ」
- 日本国民「勘違いすんなよ!武士はあくまでも武士。治安の維持と国防に専念しろ」
- 武士「面目次第もござらん。頭を丸めてちょんまげに磨きをかけるで御座る」
- 後醍醐天皇へ「日本の国柄これでいかがでしょうか?」日本国民一同
- 後醍醐天皇「やくそくを 令和の民も わすれるな」
- 日本国民「ぎりセーフ?」
- 後醍醐天皇「いとおかし(なかよくな!)」
- 諸外国「ふぁ~~い!日本!!わっかんない国だよ??」
- 日本国民一同「これが世界最古の国民国家の実力!」