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日本の国柄を揺るがした三大出来事③の2『遅れた宣戦布告』前編

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【日本の歴史】令和の御代、先人方の弛まぬ努力の結果『平和』を享受していられる私たちだからこそ知っておきたい日本の国柄・大転換点。

本項ではタヌキが独断で選んだ日本史上の三大転換点を「流しそうめんの様に」解説していきます。

今回は歴史的断層面:③の2『大東亜戦争敗戦~現在』「遅れた宣戦布告」前編です。

注:歴史講座ではありません。専門的に調べたい方はそれぞれに特化した環境にてお願いします。

タヌキ
タヌキ

お約束の『三行まとめ』・・後編・・最後に置いておくね♡

お忙しい方はそこだけ覗いて見てね

本項ではこんな内容が書かれています

遅れた宣戦布告

  • 日本の『真珠湾攻撃』により本格的日米(大東亜戦争)開戦
  • 通謀を疑う外務省職員(駐米大使館)の行動
  • ルーズベルト『断交通告遅滞』を世界中に喧伝。対日戦突入の大義として最大限利用

米側が日本の『断交通告遅滞・真珠湾攻撃』の結果だと主張する=代表的報復の一覧=

マメ知識:『駐米大使館』外務省職員のその後

~本項はここまで~

~これ以降は『後編』で紹介しています~

大東亜戦争のその後の推移

大東亜戦への回顧:独自の考察・疑問点あれこれ

  • 戦後日本のいろんな資料・言論に14の疑問をぶつけてみよう!

まとめ

遅れた宣戦布告

それでは紹介していきます。

以下、お忙しい方のためにも太い黒字の部分だけ流し読みできるようにしています。

日本の『真珠湾攻撃』により本格的日米(大東亜戦争)開戦

駐米外務省大使『野村吉三郎』以下の職務怠慢により『国交断絶・宣戦布告』通告が間に合わず、真珠湾攻撃が不名誉なだまし討ちと世界中に喧伝された大東亜戦争の起点。

注1:『宣戦布告無き戦端がすべて卑劣な国際犯罪行為と罵られるなら、1940年時点で独立を成し遂げている多くの国家はそれに該当するであろう。』(1960年代のベトナム戦争においてアメリカは宣戦布告などしていない。注:1941真珠湾攻撃から実に20年後ですけどね

注2:『アメリカは1937年時点(実稼働1940年頃から)のシナ大陸において、シナ国民党軍を支援する名目で参戦している。』

*現役の軍人をいったん退役させ義勇兵としてパイロットを募るという偽装工作までしている。その時点までの日米は中立関係にあった・・はず。

米フライングタイガース)参照⏎WIKI(実質戦争は始まっていた)

上記を頭の片隅に入れて・・読み進めてください。

通謀を疑う外務省職員(駐米大使館)の行動

外務省、東京都千代田区霞が関。写真出典:Rs1421(様)より加工

通謀つうぼう意味:複数人が示し合わせ事をたくらむ事。共謀。

1941年12月7日。予定通りに行けばワシントン現地時間午後1時(開戦の30分前)に、日本からの『断交の通告・宣戦布告状』がアメリカ側に届くはずであった。

しかし実際にアメリカ側がこの通告を受け取ったのは真珠湾攻撃から約1時間も遅れての事だった。

大東亜戦争開始時点から~戦時中~戦後まで、この日本側の失態が世界規模で喧伝されていったのだが・・

ではなぜそもそもアメリカ側への『通告』が遅れてしまったのか?

その『真相』を語り、また真実を知ろうとする者は少ない。

というわけで以下、1941年12月7日アメリカ側への『間に合わなかった宣戦布告』、断交通告遅滞までの推移を簡単に振り返ってみます。

①1941年12月、当時日米間は『米ハル・ノート(11月27日)』提示以来最悪の状態で、開戦前夜との機運が高まっていた。

②開戦通告予定前日午前、日本側は駐米大使館員に向けて「これから重大な外交文書を送る、待機せよ」の予告電報を打つ

③駐米大使館員、ただ1人の当直も置かず『同僚の送別会』を理由に大使館を引き上げる。

④日本側、予定通り駐米大使館に向けて『断交・開戦通告』電報を打つ。

⑤ワシントン時間12月7日午前9時(通告予定時間の約4時間前)、出勤した海兵武官が電報の束を発見。至急大使館員に連絡。

⑥駆け付けた大使館員が電報内容を確認。

⑦『断交通告』と知り、急ぎタイピングするも緊張のため作業がはかどらない。

⑧大使館員は『独断で』米国務省側に1時間の予定時刻繰り下げを依頼。

日本、日本時間12月8日未明・ハワイ12月7日『ハワイ・パールハーバー(真珠湾)』攻撃開始。

アメリカ側、真珠湾攻撃から約一時間遅れで『断交通告』を受け取る。

悪いネズミ
悪いネズミ

誰が信じるかよ!こんな与太話。

1億人の日本国民の運命が、こんなでたらめな外務省(大使館)職員によって決定付けられたなんて・・

当然その後、大使館員は処分されたんだよね!タヌさん。

タヌキ
タヌキ

ま、常識的に『通謀・スパイ行為』が考えられる案件だよな。

彼らを待ち受けたその後の処分を見たら、だれが犯人かわかるだろうよ(ククク)

答え合わせはのちほど♡

ルーズベルト『断交通告遅滞』を世界中に喧伝。対日戦突入の大義として最大限利用

遡れば・・日本が『日露戦争』を制した頃から、アメリカは対日本への敵視政策を貫いていました。

「やっと戦争が出来る(日本をつぶせる)」

「卑劣で狡猾な日本を叩きのめすことは、世界の自由と平和を愛するアメリカの最大の使命である」

インディアンの土地に虐殺をもたらし、諸々の理由から約3000万人をこの地球上から消滅させて見せた彼らである。

日本の失態を利用しないはずはありませんでした。

アメリカは国内外に向け『日本の卑劣さ』を高らかに宣言し、有り余る『原油・鉄・ゴム・兵器・兵員』

そして新たに加わった開戦への大義と士気の高揚を追い風に・・用意周到・準備万端の体制で『大東亜戦争』を戦うことになりました。

その結果といえば・・圧倒的火力差を背景に戦端は拡大し、日本人ならよく知っている結末へと、約3年9か月の月日をかけて『大東亜戦争』は進んでいきます。

戦時中・戦後・・そして現代においても・・

~アメリカが日本に対して行った戦時中の数々の虐殺行為は、この『断交通告遅滞』行為によりすべてが正当化されていくことになりました~

まさにアメリカは戦争犯罪に対する『すべての免罪符』を手に入れたと言わんばかりに、徹底的に『利用』したのでした。

米側が日本の『断交通告遅滞・真珠湾攻撃』の結果だと主張する=代表的報復の一覧=

①無差別都市空爆

日本に爆弾を投下したB-29 写真出典:国立公園局:ユーザー:W.wolny(加工・掲載2020/9/29)

そもそも非戦闘員(老人・女子・子供)しか残っていない各都市を無差別に空爆した理由は何か?

注:日本側が先制攻撃を仕掛けたパールハーバーは軍港です。帝国軍は無辜の市民を標的にした訳ではありません。

②焼夷弾の使用

丁寧に焼夷弾(建物を焼き払う目的の、燃える薬剤を入れた爆弾・砲弾)により空爆した理由は何か?

③重爆撃機の使用

都市空爆を目的としたプロペラ4基搭載の『重爆撃機・B29など』をアメリカ・イギリスのみ・・が開発していたのは何のためか?

④疎開船撃沈行為

『対馬丸』写真出典:『日本郵船株式会社五十年史』(日本郵船株式会社編、1935年刊)、国立国会図書館デジタルコレクションよりhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173463/371。より加工(掲載2020/9/29)

*1944年8月22日、疎開を目的とした『対馬丸』。民間人(主に学童とその保護者)約1500人が犠牲となった同船を、アメリカ潜水艦はなぜ撃沈する必要性があったのか?その後の謝罪はあったのか?なぜ対馬丸遺族会が1950年までその発足を待たねばならなかったのか?

対馬丸』⏎WIKI

*1944年9月25日、疎開を目的とした『武州丸』。民間人148人(15歳未満77人)、その他合わせて合計182人が犠牲となった同船を、アメリカ潜水艦はなぜ撃沈する必要性があったのか?その後の謝罪はあったのか?

武州丸』⏎WIKI

⑤核兵器の開発

世界はなぜ核兵器開発に向かったのか?(日本は開発を進めていない)

マンハッタン計画』⏎WIKI

⑥人類初核兵器の使用

広島・長崎になぜ原爆を投下しなければならなかったのか?

  • 世界史上最大の人類に対する犯罪行為は『断交通告遅滞』ごときで相殺されうるのか?
  • その後当事国・戦勝国側から謝罪はあったのか?

⑦ウラン型・プルトニウム型・2種類の使用

広島はウラン型・長崎はプルトニウム型・それぞれ別の種類の爆弾をなぜ投下する必要があったのか?

上記のほぼすべての戦時行為は、『ハーグ陸戦協定』において明確に禁止されています。

タヌキ
タヌキ

たった一度の外交上の不手際のせいにすることはできないけど・・

便利に利用されたことだけは確かな事だよね!

70年以上後の我が国の学校教育現場・・・・・・・・・・でもいまだに喧伝されるくらいだから・・トホホ

マメ知識:『駐米大使館』外務省職員のその後

悪いネズミ
悪いネズミ

・・で?

タヌキ
タヌキ

興味ある?

悪いネズミ
悪いネズミ

もちのロン!

アメリカに対する断交通告遅れを犯した駐米大使野村吉三郎くんの戦後⏎

野村の英語力は現地でも評判だったらしい・・「通じない方で♡」

戦後、吉田茂の要請で海上警備隊創設に関わる。昭和29年の参議院議員補欠選挙(和歌山選挙区)に出馬・当選し議員(自由民主党)となる。最終階級は『陸軍大将』従二位

公職追放時にもアメリカ側は積極的に野村に接近、生活面などで便宜を図っている。

アメリカのある大物から~野村は「日本を正しく再建するのにとても役立つ人物だ」~と評された。

東京で(病死)天寿を全うする86歳・・長生きおめでとう・・

CIAとのつながりが指摘されている。

ちなみに戦後野村を取り立てた吉田茂くん『外務次官』を務めた外務省出身の男である。

アメリカに対する断交通告遅れを犯した駐米(特別)大使来栖三郎の戦後⏎

当時アメリカ側の対日本担当の重鎮『ジョゼフ・グルー』との親交があった。

そのことから「日本外交最後の頼み綱」との期待が寄せられ、急遽、駐ドイツ大使だった来栖は野村の補佐役としてワシントンに向かう。しかしアメリカにたどり着いたのは11月。1か月足らずの期間にできる事はもはやそう多くは残されていなかったであろう。

1942年日本に帰国。アメリカ側・日本側からも非難される、まさに失意の帰国だったらしい。

当時アメリカ側は来栖を、三国同盟調印時の駐ドイツ大使だったことも含め「対米強硬派」とみなしていた。(実際は親英米派)

戦後、旧外務官が総理大臣になるなどその多くが出世していく傍らで、来栖は比較的若くして亡くなった為か、公職追放が解除された後も主だった活躍を聞くことも無く歴史の表舞台から去っている。享年68歳

悪いネズミ
悪いネズミ

あ、おれっち犯人わかっちゃった!

タヌキ
タヌキ

ネズ!めったなこと口にするんじゃないよ♡

故人の名誉にかかわることだし・・それに歴史の「闇」や「功罪」は『日本国民みんな』が真実を知って暴いていかないとね!

時間がかかっても・・かならず・・

じゃ~ね!また次回。

つづき『遅れた宣戦布告』後編⏎はこちらからでもご覧いただけます。