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いい歌紹介4:旅人の 宿りせむ野に 霜降らば・・遣唐使の母

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歌・読み・意味

『旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子はぐくめ 天の鶴群』

(たびびとの やどりせむのに しもふらば わ(あ)がこはぐくめ あまのたづむら)

意味:旅人が野宿をしている野にもしも霜が降りているようなら、どうぞ(暖かそうな)その羽で私の愛する子供を包んでやっておくれ・・大空を渡っていく鶴の群れよ。

出典・作者

出典:万葉集9巻・1791

作者:遣唐使として子供を送り出した母

歌の背景

復原遣唐使船(平城宮跡歴史公園朱雀門ひろば劇場)

ユーラシア大陸の東部、日本列島から眺めて西側一帯。

西暦600年代~900年代にかけて起こった共に鮮卑人せんぴじんの国家「ずい」「とう」に、我が国が派遣した外交使節団を「遣隋使けんずいし」「遣唐使けんとうし」と呼びます。

遣唐使の規模は1回250人~500人と大規模なもので、遣唐使の1回目は舒明天皇2年(630)からでした。

本歌には大変ありがたいことに、前後の背景が分かる「長歌」が存在しており、それによると天平5年(733)4月3日に難波の港(現大阪府中央区付近)から旅立つ「多治比真人広成たじひのまびとひろなり」の一団について詠まれた歌だという事が分かっています。

さらに長歌を紐解くと、ここで歌われている吾が子わがこ」が作者にとってはたった一人の子供であったことも詠み込まれています。

現在と違い当時の海外渡航はまさに命がけ。

このような「吾が子」の危険な旅路を前に、じっと落ち着いて見送れる母親はいつの時代もそう多いわけではないでしょうね・・

「船団が海の藻屑と消えてしまったら・・」

「悪い病に冒されはしないだろうか・・」

「野営の野に寒さで身を震わせはしないだろうか・・」

尽きぬ心配をどれ程つのらせてみても、赤子の頃のようにいつもそばにいて、自らの腕の中で守ってあげる事も、温めてあげる事も出来ない。

大陸へと続く海の彼方までも・・大空を自由に渡っていく鶴の群れに語り掛けるように、

母の魂を乗せて・・

「お前たちが我が身のかわりとなって”私の子供を育む(羽によって包む)”様に温めて(見守って)おくれ」・・と願っています。

タヌキ
タヌキ

今となっては知る術もありませんが、この歌に詠まれた「吾が子」。

きっと無事日本へ帰還し、母との再会を果たしたことでしょうね♥

・・タヌはそう願っています。

遣唐使について

「唐」の国、西暦618年~907年まで続いた騎馬民族「鮮卑人せんぴじん」の国家。

シベリア・現在のバイカル湖

鮮卑人の故郷はロシアバイカル湖南部。別の騎馬民族「匈奴」によって追われた一団が南下を続け、中原一帯(黄河中流域)を支配したのが「隋」、そして後の「唐」の始まりです。

我が国は「隋」時代から使節団を正式に派遣していました。

遣唐使派遣の趣旨については一般的に、「朝貢」(みつぎ物を持って外交の印とし、国家としての承認や権利を認めてもらう)と説明されていたりしますが、これは根拠の薄いデタラメです。

実際はマーケット(貿易)の儀式が「朝貢のスタイル」を採用していただけで、わざわざ遠方の国家が自ら進み出て「属国」に、あるいは序列の下に付きたいと願い出たわけではありません。(笑)

実際、それを物語る面白いエピソードが伝わっています。

アヘン戦争後:清朝の列強に対する姿勢
第一次アヘン戦争での交戦の様子。

1840年~のアヘン戦争後、イギリスは莫大な賠償金を「清朝(満州人の国家)」からせしめ、香港などの港の割譲を成功させ、その他の列強国も清朝から利権を確保しようと、続々と不平等条約の締結にこぎ着けました。

しかしそのような折でさえ、清朝はそれまでの「朝貢」スタイルを列強に要求します。

つまり・・”すべての物品は清朝にある。この世に皇帝が揃えられないものはないのだから、先ずは「首を垂れ」珍しい品々を差し出しなさい。しかる後に求める物品を下賜しよう!”というのが歴代シナ王朝の考える貿易スタイル、つまり「朝貢」(貿易)だったのです。

しかし当然ですが、列強はこれらを無視し、様々な”特例待遇”のもと清朝の財産を「貿易」というかたちで奪って行きました。

国家の消滅期においてさえ体面だけは保とうとした・・

体面が保てなければ国内の別勢力にとって代わられる・・

だから実態が伴っていなくても、自分自身を大きく見せ続ける・・

トホホな「中華思想」のなれの果てが清朝末期の「朝貢」に詰まっていました・・とさ。

悪いネズミ
悪いネズミ

シナの「朝貢」なんかより、よっぽど悪辣だったのが西洋の「貿易」だったんだね!

ですので、本当の”シナ版”の「朝貢」とは・・

  • シナの朝廷へ献上品を持ち寄る(物々交換の品)
  • 皇帝はその物品の価値がどうであっても、高価で珍しい品々を下賜する(貿易成立)
  • ある程度の移動の自由と市場においての独自の売買も認める(これが最大の利益)
  • 皇帝は国の内外に自らの権威の偉大さを見せつけることに成功(政権安定・国威発揚)
  • 各国使節団は自国に持ち帰ると高値で取引される物品を得られる(外交・商売両面達成)

このように、実はシナの皇帝が”下賜される高価な品々をに、周辺地域からの使節団を迎え入れる事によって皇帝の権威を周辺国や自国民に見せつける事”が第一目標の貿易スタイルだったのです。

逆説的に言えば、この「朝貢」スタイルを認めなければ・・

  • 貿易はできないよ!
  • 入国も許可しないよ!
  • 当然国交の話し合いも出来ないよね!

こんな感じで支配地域を運営していたのが歴代のシナ王朝だったのです。

悪いネズミ
悪いネズミ

高々貿易にさえ、こんなめんどくさい儀式に付き合わされた周辺国家は大変だっただろうね~~

嫡男:スラ
嫡男:スラ

未だに「どっちが上か!」ってだけで揉め事になる、序列文化全開なんだから・・当時の周辺国家だって「子供のお遊びに付き合ってやるか~」って、思ってたことだろうね♡

妻

じゃ~遣唐使の頃の「朝貢」も・・

タヌキ
タヌキ

そう!

663年の白村江敗戦直後の「遣唐使」には外交的な意味合いが多分にあったと思うけど、時代が下がった後、ちょうどこの歌が詠まれた以降には、我が国にとっても「経典類や公家社会の嗜好品あさり」が主たる目的と化していただろうね♡

・・って事でみなさんも、

「シナの皇帝が周辺諸国の頂点に立つ権威を持ち、我が国もその傘下に収まっていた」などとする、「朝貢」の理解不足からくる”歴史ファンタジー”に騙されないように注意してね。

参考:白村江敗戦について

さてさて、そのような「遣唐使」でしたが、シナの歴史の例外にもれず肝心の「唐」が、800年代の終わりころから始まった「黄巣の乱」の影響などで瓦解していきます。

我が国の内情としても、度重なる出費、航海の安全性、それに肝心の大陸へ着いた後の”治安の悪化”が深刻になっていたとの観測から、承和5年(838)の19回(諸説あり)の派遣を最後に、遣唐使自体が廃止となっていきました。

ちなみに遣唐使はその後もたびたび計画されていましたが、完全なる廃止を取り決めてくれた「賢人」が、こんにち「天神さま」として崇められている「菅原道真すがわらのみちざね」公だったのです。

悪いネズミ
悪いネズミ

シナに奇妙な憧れを抱くことなく、シナと縁を切る・・素晴らしい決断をありがとうございます。

雑談

嫡男:スラ
嫡男:スラ

父ちゃん!

もしも唐が安定的な国家運営を続けていたら、「遣唐使」は廃止されなかったのかな~?

タヌキ
タヌキ

先ずその前提が成り立たない(爆)

シナ大陸は多民族間の抗争の舞台だから、その歴史を(中国などと)ひとくくりに語ると大切なことが見えなくなっていくから注意しような!

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我が国の記録では2・4・9・10・14・16回目の遣唐使が遭難事故に遭ったとされていて、その他の航海でも平均4船編成時、無事にすべての船が入唐出来る事は稀だったようです。

当然、多くの人命も海の藻屑と消えてしまっています。

妻

遣唐使って・・こんなにも危険と隣り合わせだったんですね。

母親にとっては、子供が何歳になっても「わが子はわが子」。

ここで紹介された歌の「母親」が、「吾が子はぐくめ」と詠んだ気持ち・・切々たる願いが込められていたんでしょうね~。

シナ史の安定期のサイクル・・遭難の危険性・・それに盗賊による略奪行為・・

やはり遣唐使は、廃止以外の選択肢は考えられそうも無かったでしょうね。