『太閤に聞く経世済民と治世の極意1』売国『都構想』の裏側編
『経世済民』は治世の常識。人の世は日々を生き抜いてこその物種
『世を経め、民を済う』
出典:古代シナ大陸に勃興した東晋の『抱朴子(地眞編)』に「経世済俗」という表現が初めて現れる。
日本における『経済』の元々の意味は「お金の取り扱いに詳しい者」だったが、江戸後期ごろから次第に「生産・消費・物流・売買」などを含めた現代的な意味合いで広く使われるようになった。
『済民』は文字通り、一般の庶民を(経済活動によって)助ける、救う事。
なお現在の意味で使われる『経済』という言葉は、江戸期に日本で生まれたもので、逆輸出されるようにアジア圏全体に広がっていった。
同意語:『経国済民』
*ちょっと豆知識:現在シナで使われている言葉の大半は日本で編み出されたものである。(文化・伝統・文明など)
共通の言語を持てなかったシナは「科挙」の試験をもって中央官僚の掌握に苦心していたが、その最大の理由が「公用語としての漢文の理解」であり、いわゆるそれ以外の「方言」を認めてしまうと、国中でまったく公文書の意味が通じなくなってしまうため苦肉の策で編み出された制度が「科挙」だった。(清朝は女真族の国である)
ちなみに日本が(1905年)日露戦争に勝利を収めた事をきっかけに、シナでは1000年以上続いていた科挙の試験を廃止している。(もちろん漢文を学びに目指した新天地は我が国日本であった)

太閤様。前回に引き続きご助言賜りたく存じます。

苦しゅうない。

ではお言葉に甘えまして・・
太閤様が天下統一を果たし、まず第一に心掛けた政策はどのようなものだったのでしょうか?

第一に民!第二に民じゃ!!
民を守ってこその日ノ本よ。
そこもとらが語る経済は無論の事。治安・衣食住・評定(裁判)・追捕(警察行動)などなど、ありとあらゆる手段を用いて乱世の終わりを天下に知らしめたわい。

民あっての天下・・と言うわけですね!

左様。
北野・醍醐に『大茶会』を催したのも、民に検地と刀狩りを敷いたのも、ひとえに乱世の終わりを伝えるためと、それぞれの役柄を思い出してもらうための措置じゃて・・
一度乱世を経験すれば各自が自衛のために武装するは無理からぬ事・・じゃが、何時までもそれを続けさせておっては『瑞穂の国』が泣いてしまうでの・・仮の統治を任せて頂いた『朝廷』にも申し訳が立たんわい。

それでは、具体的な経済対策をお聞かせください。

そうじゃのう、わかりやすく箇条で云うていこうぞ。
- 治水
- 公平な評定・裁き・身分の安定化(刀狩令)
- 年貢の明瞭化・重加算の解消(太閤検地)
- 城・城下の普請
- 商業の奨励
- 伝統・行事の復活
- 朝廷の復興活動と神社仏閣への寄進
何せ、明徳の前は『南北朝』で60年以上、足利八代義政殿の頃から始まった『応仁の大乱』からは100年以上、日ノ本は戦乱に明け暮れておったでのう・・民の拠り所である田畑の回復がまずは第一義であった。
で、あるからしてやはり治水と治安維持が一番かのう・・

刀狩りに代表される治安関係の政策も『経済』復興には重要なのでしょうか?

治水と治安維持で『経済』復興の八割はなったようなものじゃろうて。
今の日ノ本は恐ろしいほどの作業をこなす『機械』と呼ばれる道具があるそうじゃが、我らの時代にはそのようなものはなく『人海術』が当たり前じゃった。
乱世の終わりと、瑞穂の国の再来を皆に自覚させるためにワシの号令一下、取り急ぎの天下平定が成った小田原の仕置き(領地配分)以降は、豊臣恩顧の大名には格別に『治水』に励むようにと申しつけておいた。
100年以上馴染ませてしまっておった自己防衛の『刀』から『鍬・鎌』に持ちかえさせるためには、絶対的な治安回復はわれら武士階級の農民に対する最低限の約束事だったのじゃ。

加藤清正・福島正則・田中吉政など・・この時代の活躍があったればこその都市が全国に散らばっている事でも納得させられます。

城は藤堂と虎之助(加藤清正)に・・
検地奉行は佐吉(石田三成)に・・
武の統括は小一郎(実弟秀長)に・・
内々は宗易(千利休)に・・
皆々よう働いてくれたわい。

民の協力・受け取り方はいかがでしたか?

各権門・寺社領などが複雑に入り組んでおる地域以外は、皆々ワシの意を汲んで協力的じゃったぞ。
佐々の肥後の仕置きは残念じゃったが、あそこは南北朝の頃より複雑でのう・・(わざとではないぞ)

その取り組みの結果、いわゆる経済は上向きましたか?

それはもう大喝采に大繁盛よ!!
地域によっては100年以上滞っておった「祭・催し」が皆々の手で復活。
老若男女が思い思いの着物や飾りを楽しみ、茶の湯は大盛況・芸術においても狩野(永徳・光信)・長谷川(等伯)・俵屋(宗達)などなど・・今にも現存する『国宝』の数々はワシと御屋形様が「保護者・パトロン」であったおかげでもあるのじゃぞ!

等伯殿の智積院「旧祥雲寺障壁画」などはまさに絢爛豪華、わざと贅を尽くした煌びやかさを視覚にて訴えかけているようです。

よう云った!!そこなのじゃ!
そのわざとの様な絢爛豪華がワシが意図した事なのじゃぞ。
大坂の城に「黄金の茶室」をこしらえたも、京の「聚楽」も、伏見の「城(伏見桃山城)」も・・みな太平を世に伝えるための宣伝効果を得るための施しじゃて。

天下人が率先して財を使って見せる・・まさに景気の気は「気分の気」でもあるというわけですね!

お主・・見えておるのう・・(にやり)
生き死には人を臆病にさせ、世の空気は殺伐と疑心暗鬼に満ちてくるのもよ・・
かたや、ワシが「朝廷・天皇」に代わって世を仮に治めるのじゃ、我が名に懸けて民百姓を明るくせにゃならんじゃろう。
だから、使うのじゃ・・だからばら撒くのじゃ・・だからみなとともに騒ぎ、祭りを復活させたのじゃ。
もちろん、遊んでばかりではないぞ。
治水事業・城・城下町の普請・交通網の整備・寺社の再建・・
今で云う『公共事業』をふんだんに執り行うよう我が配下には命を下しておったぞ。

太閤様!今より約430年前に御自らが示していただきました数々の政策群が・・まさに今回のテーマ『経世済民』なのではないでしょうか?

(どや顔)もそっと大声でほめてくれてもよいのじゃぞ♥。
豪族・小名・単位では大河川の治水などできるわけも無かろう・・ましてや世は乱世じゃ。明日を信じるも困難な折に、翌年の収穫を期待しながら「鍬・鋤・鎌」は持ってられんでのう。
天下を平定したからこそ『大土木事業・大治水事業』が押し進められるのじゃ。
群雄割拠に何が出来たか・・皆々、郷土史を振り返ってみよ。証拠はごまんとあるはずじゃぞ(笑)。

不肖タヌキも経済をそのように捉えておるのですが、
①われわれが暮らす現在日本は消費に罰則(消費税)をもうけてみたり・・
②地方経済を散々壊しておいて、地方創生だとほざきながらさらなる規制緩和を進めようとしてみたり・・
③太閤様のお膝元の大阪では、国家分断に直結するがごとき『都構想』なる、売国政策が進められておりました・・
これらについては如何なるお考えをお持ちでしょうか?

ふぉっふぉっふぉ・・見事にしてワシが手掛けた正反対の政策が押し進められているわいのう。
ワシが天下に太平を知らせる為に数々の政策を打ち出しておったは先に述べた通りじゃ!
それの正反対の政策なのじゃから・・行きつく先は決まっておろう!!

やはり・・(ごくり・・)

・・そうじゃ。
皆の衆ももうすでにして気付いておる者の方が多かろう・・
乱世への誘いじゃ!
お主たちの世にはびこる為政者が執り行う政策はほぼ全て、ある道筋に向かって敷き詰められておる・・
それは、一部の利益享受者と国外勢が・・ハゲタカのようにして日ノ本の富を食らい尽し、我らが子孫・・つまりお主たち日本人を抹殺するために仕組まれた道筋なのじゃろう!

今回はギリギリのところで踏み止まった『都構想』も、まさにその道筋であったと?

明々白々・・他になんと言い換えるのじゃ?
それもこれも、海を挟んだバテレン(米)国との戦に負けたが所以じゃ。
たかが紙切れの憲法とやらを、いつの世まで後生大事に持ち続けるつもりじゃ?
我が国は「朝廷・天皇」のしろしめす国なるぞ。
錦の御旗に集いて、強き国家を思い出さねば各個撃破・・ゆくゆくは細かく分断され、敵の血肉となろうぞ・・
みなみな夢々忘れてくれるなよ。

もったいなきお言葉の数々・・恐れ入りまする。
乱世に終止符を打たんがためにその生涯をささげた英傑なればこその視線・・
現在にも通じるご助言・・次回にてもよろしくお願いいたします。

あいわかった!
①国家はまとまってこそ!(国力向上は善・地域分断は悪)
②銭は回せ!(財政出動)
③仕事はつくれ!(公共事業)
④消費は奨励せよ!(消費税の全撤廃)
皆の衆・・これだけは忘れてくれるなよ。

それでは皆様、【『都構想』勝利者インタビュー:太閤に聞く経世済民と治世の極意3】と題しまして
次回最終話では「情報戦を制す秘訣と政治の見極め方」をお送りしたいと思います。
用語説明一覧
『南北朝の争乱』⏎

応仁元年から明文9年(1467~1477):八代将軍足利義政の後継者争いに端を発した、幕府内が東西に分かれ11年にわたって繰り広げられた大乱の総称。
この戦いを機に幕府の弱体化がより顕著となり、『下克上』が叫ばれる群雄割拠の戦国時代へと突入することになる。
律令制下の令外官司の一つ。警察・軍事的役職。
おもに東日本では押領使。西日本では追捕使と呼ばれた。
後にその範囲・任命権が鎌倉に移り『守護』が誕生していく。
天正15年(1587):肥後の領国化を焦った佐々成政に反発した肥後国の国人衆が大規模な反発運動を展開した事件。成政は翌年その責任を取らされるかたちで切腹させられる。
この事件が発端となり、その後大規模な刀狩が実施されるようになった。(1588年刀狩令)
天正18年(1590):北条氏の本拠『小田原城』を中心とした豊臣方と北条方の一連の戦いの総称。
豊臣方の勝利:北条氏最後の頼みであった伊達氏が豊臣方に下ったのちは北条方の戦意は喪失。小田原城前城主(北条氏政以下3名)の切腹をもって平定を見る。
この戦い以降は最早豊臣氏を脅かすほどの存在は無く、天下統一に向け加速度的にその歩みが進められていく。(天正18年9月1日帰京・1590:豊臣秀吉天下統一)